はすの会主催 講演会のご案内

2023年10月29日(日)に、たましいのメッセージとして『死別の悲しみの中にいるあなたへ』というテーマで、髙木慶子先生をお迎えして講演会を開催いたします。

私たちの人生は「喪失体験の連続」とも言われています。それは、財産、生活環境、社会的役割、地位・肩書、経済力、老化による抵抗力・体力、行動力等々。そして、最もつらい喪失が、愛する人たちとの別れです。このような困難な人生を、私たちはどう生きたらいいのでしょうか?
グリーフケアの第一人者である高木慶子先生のお話を聴くことでそのヒントを得られるかもしれません。

*申込期間は、9月25日〜10月23日で先着順です。
講演会の詳細と申込方法はチラシをご覧ください。

皆様のご参加を心からお待ちしております。

その後いかがお過ごしでしょうか

はすの会に参加されている皆様、その後いかがお過ごしでしょうか。

いま桜が満開の時期ですが、コロナ禍のため花見の自粛要請が出されています。皆様のように大切な家族を亡くした方にとっては、いろいろな事が想い出されてとてもつらい季節ではないでしょうか。

そのような悲しみやさびしさや不安などを抱えながら毎日をつらい思いで生活されていることでしょう。そしてようやく「はすの会」での出会いを体験し、「私、一人ではなかった」というような体験や本音を吐き出すことで、心の変化に気付かれ、心のより所と思ってくださる方もいらっしゃるかもしれません。

このような皆様にとって「分かち合い」は本当に大事な出会いの場なのですが、コロナの感染者が急増し、また開催が難しくなってきました。参加者のお互いの感染防止のため、私たちスッタフも残念なのですが一時中止せざるを得なくなりました。

目に見えない「コロナウイルス」は人と人との距離を取らざるを得ない状況をもたらしました。私たちは今、親しい人であっても「感染しているかもしれない」と、互いに「不安や心配」を感じて接しなければならないようなところまで追いつめられています。

しかし、これまでのコロナ禍を体験する中で改めて気づかされたことは、私たちが抱えている「死別の悲しみ」は、同じような体験をした者同士が「じかに出会い」膝を交えるようにして「分かち合う」ことがどれだけ大切かと再認識させられたということです。

いま、第4波が始まっていると言われています。またワクチン接種はまだまだ期間を要するようです。これから先の見通しは決して楽観できるものではありません。しかし再開できる日が必ず来ます。それまで皆様にとってはつらい日々が続くでしょうが、どうぞ踏みとどまっていてください。

次会での再会をスッタフ一同心からお待ちしています。(F.Y.)

生きる意味

人の生きる意味、死ぬ意味を私なりに考え、出した答えです。

 私は高校の頃、人はなぜ生きるのかその意味を考えた時期がありました。人と同じく生命を持つ動物や植物は生きる意味や理由を考えるのだろうか。考えなくとも季節の移り変わりにきちんと対応して黙々と生きている。人間だけがたまたま脳が他の動物より大きく、考えてしまう。考えなくても答えがわからなくても生きることはできる。答えが何であれ生きていける、答えなど無いのではと、こんな風に考えたことがありました。意味は何かまで行かずそこで止まりました。私としてはそこまでで事足りていたのでした。脳の働き、心と科学の関係、などの難しい話はこのテーマとは異なりますのでちょっと置いておくことにします。

 年月が経ち私は娘を事故で失い、71歳になり、次の様に考えます。
人が数十億人いればその数だけ、数十億通りもの生きる意味が有ると思います。死ぬ意味にも生きる意味にもその人の今に至るまでその人固有の背景が有り、全く同じ背景などあり得ません。似たもの、まして共通する背景などを求めてもなかなか無いのです。
納得のいく答えを求め捜すのは苦労し、なかなか巡り合うのは難しいですが、本や講演、あるいは身近な人で、巡り合えることが有ります。講演などを聴きに行って、その人にとって納得のいく話というのは、その人固有のものに対応しているからだと思います。それは大変幸福なことです。どん底の中で心の支えになってくれます。遺族会での他の方の話で答えを見いだすこともあるでしょう。グリーフケアにとって、本、講演会、遺族会の存在の意味はそこにあると思います。

 その人に適応する固有の意味、答えは必ず有ると思います。そしてそれを探し出すことのできるのはその人本人しかできないということです。この作業は一生かかるかもしれません。一生かかるほど大事な作業だと思います。

 私自身の答えですが「私にしかできない私の役割をきちんと果たすことが私の生きる意味である。」と思っています。私の役割とは「死んだ娘に恥じない生き方をする。」ということで、今ここで語ることもその役割の一つと思っています。            (N.S.)

緊急事態宣言の中、いかがお過ごしでしょうか。

緊急事態宣言の中、いかがお過ごしでしょうか。遺族会例会を開催することが叶わず、スタッフ一同もどかしい思いでおります。大切な方を亡くされた悲しみ、寂しさ、怒り、後悔・・・こうした思いを自粛することなんてできないのですから・・・。
 昨年の緊急事態宣言のさなか、大切な友人を亡くしました。高校の先輩であり同窓会組織の中でずっと一緒に奉仕をし、たくさんのことを語り合った仲間でした。病を得て入院をされていましたが、病院の面会禁止を受けて辛い闘病生活の間もお会いして話をすることもできず、ちゃんと最期のお別れもすることができませんでした。亡くなったと聞いたときには、いつの間にかフッといなくなってしまったような不思議な感覚を覚えました。亡くなったってどういうことなんだろう、いなくなるって・・・?。余命については聞いていたはずなのに、こうした言葉が頭の中をぐるぐるまわるばかりでした。なんとかお通夜と葬儀に参列することができたことで「あ、これは現実なんだ」と少し認識することができた感じです。いまだに、今は会えないけど世の中が普通に戻ったらまた以前のように会えるような気がしています。
 友人であったわたしでさえこのような悲嘆をかかえていますので、ご主人はどう過ごしておられるのだろう・・、彼女がいつも支えておられた実母さん、義母さんたちはどんな思いでおられるのだろうかと心配をしています。3ヶ月にわたる入院生活でようやく直接対面できるようになったのは亡くなる2日前だったそうです。多くを語ることをしない、人前に出るのが苦手なご主人であることを彼女から聞いていました。11月になり喪中はがきが届きました。そして12月には「ぼくは〇〇(名前)と好きで結婚しました。結婚して本当によかったです」とつづられた葉書をいただきました。なぜこの時期に、つぶやきのような言葉を葉書にして出そうと思われたのだろう・・どんな意図があるんだろう・・・不思議に思いました。
今から考えるとご主人の精一杯の、そしてようやくたどり着いた最高の言葉だったのだと思います。悲しみ苦しみ後悔・・・いろんな入り混じった思いを経ながらようやくたどり着いたこの言葉に落ち着きを感じられたのだろうと思いました。そしてそれは自分の中だけでは納まりきらず、誰かに聴いて欲しい、そう思われたのだと思います。思いを自由に語れること、聞いてくれる人がいることはその方の思いを整理したり確認したりするのにはとても大切なことなんだと改めて感じました。
 コロナ禍が収束した後の世界はどんなになっているのでしょう。仕事の形態が変わり、生活様式が変わり、人と人の距離感が変わり、人の考え方が変わり・・・。でも人の思い、思いやりは変わって欲しくないと思います。ひとりじゃないんだ、そう思える、そっと寄り添ってくれる人がいると思える・・このことをいつもいつまでも大切にしたいと思っています。
 もう少しの間お会いすることができないかもしれません。でもわたしたちはいつも変わらず、ここにいます。(W.K.)

神よ、
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。
         ラインホールド・ニーバー(大木英夫 訳)

死別の悲しみをどのように受け止めたらいいのでしょうか

この20年ぐらいの遺族の人たちの(*悲嘆の途中の)悲しみの受け止め方を新聞記事やテレビ、ラジオの声や手記などからメモしてきました。死別の悲しみは一生無くなることはありません。乗り越えることもできません。喪の作業は、一生かけて行われるものです。
大切な人を亡くした悲しみの受け止め方は、亡くなった方、死因、年齢、その方との関係性、など遺族の状況はそれぞれ違います。それゆえ、受け止め方も様々です。その中から、表現の仕方の多かったものの一部を紹介します。

これからもずーっと一緒です。
あなたと一緒に生きていきます。
あなたの死を無駄にしません。
あなたは私の心の中に生きています。
供養していきます。見守ってください。(私の方が見守られているような気がします)
この悲しみにあなたは耐えられないでしょう。私が生き残ってよかった。
再会したら「私はガンバッテ生きてきたよ」と言いたい。
これまで私の子ども(夫)でいてくれてありがとう。
あなたのことは忘れません。あなたに恥じない生き方をします。
あなたからたくさんの事を学びました。これからも導いてください。
あの世で幸せに暮らしていると思います。
私が死ぬ時には、お迎えに来てください。
あなたは人生を充実させて生きました。
大いなるものに委ねたいと思います。
この世にはどうにもならない事があります。

これらの声は、ご遺族の悲しみを抱えたまま生きている途中の「今の心境」を尋ねられての言葉・表現です。この言葉の裏には消えることのない、悲しみ、後悔自責、罪悪感、怒り、淋しさ、恨みなどの悲嘆感情が潜伏していることを見逃してはなりません。それらの感情は、何らかの刺激で突如として湧き上がってくる事があるでしょう。それが普通のそして正常な悲嘆感情です。体験したことのない人にはきっとわからないでしょう。紹介したいろいろな受け止め方も一生かけて、時間と共に刻々と変化していくようです。

終わりに、平山正美さんの言葉を紹介します。

「最終的には、他の誰でもなく自分自身で辛く悲しい運命と向き合い、そしてそれを抱え自分なりに折り合いをつけて、歩み直していくしか道はないのですから。」

身も心も引き裂かれるような理不尽な死別の悲しみは、乗り越えることなんかできません。抱えたまま生きることを覚悟して生きていくしかないのかもしれません。(F.Y.)

『大切な人をなくすということ』を読んで

ステイホームのこの時期に、以前読んだ本をもう一度読み直しています。

はすの会でしばらくの間、皆様に会えず、どう過ごされていらっしゃるかと案じつつ本棚のこの1冊に手を伸ばしました。薄くて口語調の文体が多く読みやすい本です。

はすの会の全スタッフが共に学んだ「上智大学グリーフケア研究所」の特任所長である高木慶子先生の著書です。われわれスタッフは、愛する人を喪うという辛く苦しい方にせめて心だけでも寄り添わせてほしいと願う思いをもっておりますが、高木先生はこれまで30数年に亘ってそれを実践されてこられました。

その著書の1部分ですが、ご紹介させて下さい。

阪神・淡路大震災でお子さんを喪ったお母さん方とお話をされ、「周囲の人からしてほしかったことはありますか」と高木先生がうかがったそうです。その時の声は次のようでした。

「とにかく、そっとしておいてほしかった」

「死者のために祈ってほしかった」

「ひとりになりたかった」

「思いやりをもって見守ってほしかった」

「話を聞いてほしかった」

「やさしく接してほしかった」

「どうしてもらいたいか、よくわからなかった」

何か言葉をかけようとするよりも、励まそうと気負って接するよりも、「静かにそばにいる」ことの方が大切であること、心ある第三者がそばにいることが大切であることを感じられたそうです。(『大切なひとをなくすということ』PHP研究所 2011年 より)

新型コロナウイルス拡散による緊急事態のなか今は皆さんと直接会ってお話をすることができない状況ですが、「はすの会」われわれスタッフがあなたにとって、心ある第三者としてあなたを思い、苦しさ、辛さ、理不尽さに押しつぶされそうになりながらそれでも日々がんばっていらっしゃるあなたのことが気がかりでいることを忘れないでいただきたいのです。

この書のあとがきに次の言葉が記されていました。

作家の林芙美子氏の「花のいのちは短くて 苦しきことのみ多かりき」

苦しみ多き人生を生きる者同志として、共に支え合っていければと心から願ってやみません。(M.S.)

今日、わたしが思うこと

先日、宇宙飛行士の野口聡一氏が自宅待機のこの状況について、宇宙船に乗っているのと同じだと表現されていました。話す機会がない、食べたいものが食べられない、行動範囲が限られるといったところで共通しているとのことでした。そんな中で大切なのが「ルーティーン(規則正しくすること)を作ること」「目の前のできることをする」だそうです。野口氏は毎朝起きた時に身体を動かすというルーティーンを自分で決めて実行していたそうです。

「話をすることで少し楽になる」「自分だけだと思っていたのに、同じような人がいた」と参加されたご遺族さまが思えることは遺族会としての大きな役割のひとつだと、わたしたちスタッフは考えています。聞いてくれる相手がいるということはとても大切なことです。しかしそれができない今、みなさまどうされていらっしゃいますでしょうか。きっと頭の中を同じ考えがぐるぐる回るだけでそこから抜け出すことさえできず、お辛い思いをされているのではないでしょうか。

そこで、「誰かに話す」という作業をおひとりおひとりの中でしてみてはいかがでしょうか?「愛する方のお写真に語りかけてみる」のはもちろんですが、独り言でもよいと思うのです、気持ちをそのまま口にしてみることが大切です。

また文章にしてみるのもよいことだと思います。「文章」と言われると「無理無理」と思われるかもしれませんが、堅苦しく考えなくてもその時の気持ちを殴り書きすることから始めてもよいのです。書くことで不思議と頭の中が整理されたり、時間が経って読み返してみると「ああ、こんなこと感じてたんだ・・・ちょっぴりだけど変わったかもしれないな・・・」と感じることもあるかもしれません。もちろん「全然変わらない・・・」と思うことも大いにあり・・・。文字として具体的に目で見ることによって、自分の思いが浮かび上がり、いろんな気づきが与えられることがあります。また次に誰かに会えた時、それを見てもらって話をすることもよいかもしれません。

たくさん書きたければたくさん、たくさん書けなければちょこっとだけ。決して無理をせずご自分のペースでルーティーンにしてみるのもよいかもしれません。(W.K.)

私のある一日

新型コロナウイルス感染症で、世界中が大変な状況の中、多くのものを失って過ごしています。
今までの生活リズム、仕事、自由に出かけること、何より安心という気持ち。
安心して人と会い、対話するという普通で大切なことができず、大きなストレスも感じています。

日々の重く暗いニュースに不安がつのることもあります。
以前の生活に戻ることはなかなか難しいようで、「コロナ疲れ」という言葉もよく耳にします。

私自身、亡くなった人を想い、一緒にいてくれたら、気持ちを分かち合えたら、どれほど気が紛れたり、心強いだろうと思います。
穏やかだったかなしみが大きく膨らみ胸がざわつきます。

先日体調を崩した時、心と身体はとても呼応しあっていると実感しました。
そして心身のバランスを保ち、少しでも穏やかに過ごすために日常生活を整えようと反省しました。

家事や軽い運動で屋内でもできるだけ身体を動かすようにし、ベランダでは草木に水をやり、空を見上げ、風を、季節を感じて気分転換しています。
また、ひとり暮らしでは難しいことでもありますが、1日単位でできるだけいろいろな食品を摂るようにしたいと努力中です。
そしてなかなか寝付けなくても横になり目を閉じるようにして、睡眠も規則正しくなるようにと心がけています。

筆まめな人とは手紙のやりとりで、メールやビデオ通話を使って、近況や気持ちを伝え合い、お互いに閉塞感や孤独感を晴らしたりしています。
今できることを探し、活用して、好きなことも楽しみながら…

そして、朝な夕なに亡き人に一日の報告をしています。

ささやかですが私はこのような日毎の積み重ねを大事に今を過ごしています。

亡き人を思うにも個性や背景があり、悲嘆とともに過ごしていく過程も異なるようです。
もし必要ならば、あなたはあなたらしい過ごし方を探してみてはいかがでしょうか。( N.H.)