生きる意味

人の生きる意味、死ぬ意味を私なりに考え、出した答えです。

 私は高校の頃、人はなぜ生きるのかその意味を考えた時期がありました。人と同じく生命を持つ動物や植物は生きる意味や理由を考えるのだろうか。考えなくとも季節の移り変わりにきちんと対応して黙々と生きている。人間だけがたまたま脳が他の動物より大きく、考えてしまう。考えなくても答えがわからなくても生きることはできる。答えが何であれ生きていける、答えなど無いのではと、こんな風に考えたことがありました。意味は何かまで行かずそこで止まりました。私としてはそこまでで事足りていたのでした。脳の働き、心と科学の関係、などの難しい話はこのテーマとは異なりますのでちょっと置いておくことにします。

 年月が経ち私は娘を事故で失い、71歳になり、次の様に考えます。
人が数十億人いればその数だけ、数十億通りもの生きる意味が有ると思います。死ぬ意味にも生きる意味にもその人の今に至るまでその人固有の背景が有り、全く同じ背景などあり得ません。似たもの、まして共通する背景などを求めてもなかなか無いのです。
納得のいく答えを求め捜すのは苦労し、なかなか巡り合うのは難しいですが、本や講演、あるいは身近な人で、巡り合えることが有ります。講演などを聴きに行って、その人にとって納得のいく話というのは、その人固有のものに対応しているからだと思います。それは大変幸福なことです。どん底の中で心の支えになってくれます。遺族会での他の方の話で答えを見いだすこともあるでしょう。グリーフケアにとって、本、講演会、遺族会の存在の意味はそこにあると思います。

 その人に適応する固有の意味、答えは必ず有ると思います。そしてそれを探し出すことのできるのはその人本人しかできないということです。この作業は一生かかるかもしれません。一生かかるほど大事な作業だと思います。

 私自身の答えですが「私にしかできない私の役割をきちんと果たすことが私の生きる意味である。」と思っています。私の役割とは「死んだ娘に恥じない生き方をする。」ということで、今ここで語ることもその役割の一つと思っています。            (N.S.)